> 古典 > 人々は、みな有用なものが役に立つとわかっていても、 無用なものが役にたつことを知らない。(荘周)

人々は、みな有用なものが役に立つとわかっていても、 無用なものが役にたつことを知らない。(荘周)

<引用>

(p.35) 荘周 『荘子』 鎌田浩紀 『座右の古典』 (ちくま文庫 2018年)

「万物斉同(せいどう) すべての物は、斉しく(ひとしく)同一(同じ価値をもつ)である。」

「私たちが、良い悪いと区別するものも、長い目でみると、その判断に意味がなかったと思い知らされる。価値観は、立場や時代によって変わり、長短、明暗、美醜なども、みな相対的なもので、現実の社会に、差別や対立を持ち込んだのは、人間のこざかしい評価ともいえないか。」

「今の世では、役に立つものばかりが求められ、役に立たないことは排除されるが、一見役に立ちそうもないことから、時に新しい発見が生まれ、思いもかけぬ展開が拡がる。いにしえの賢人の言行録である古典をじっくり読むことも、これに当たるかもしれない。「無用の用」という成語は、ここから生まれた。」

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<考察>

私たちは、比較して価値に違いがあると一般的には考えます。でも、さらに本質的な価値、普遍的な価値を追求して考えると、それぞれの価値を比較して差があると判断すること自体が間違いかもしれません。荘周がいうように、時空を超えて考えてみれば、その時々の人間が評価したとしても、結局すべての物は同じ価値とする見方もできます。

効率性や合理性を追求する経営の視点で限界を感じることもあるでしょう。そんなときには、「無用の用」という別の視点で考えることも、ときには必要となるようです。すぐに役立つことばかりが必ずしも正解でなくて一見、ムダに思えること、結果が分かっていることばかりでなく予想がつかないこと、こうした余分なことにこそ成長の種があると信じて、回り道しながら歩んで行くことで限界を突破できるかもしれません。はじめから無用で終わらせても仕方ないと思いつつ行うのでなく、いつかこの種を開花させるときが来るはずと、真剣に取り組めばこそ、新しい発見や希望につながるに違いはないと思います。